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Исповедь «неполноценного» человека

Книга для чтения на японском языке
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Артикул: 824436.01.99
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Осаму Дадзай — одна из самых трагичных и загадочных фигур японской литературы XX века. Роман «Исповедь „неполноценного" человека» — последнее крупное произведение писателя — написан в жанре «ватакуси-сёсэцу» (повесть о себе). Дописав «Исповедь…» и вложив в нее всю свою душу, Дадзай вместе с Ямадзаки Томиэ совершил синдзю, «двойное самоубийство влюблённых». В это время года созревают плоды вишни, поэтому 19 июня, день памяти писателя, в Японии отмечается как «День поминовения вишен».
Дадзай, О. Исповедь «неполноценного» человека : книга для чтения на японском языке : художественная литература / О. Дадзай. - Санкт-Петербург : КАРО, 2023. - 192 с. - (近現代文学). - ISBN 978-5-9925-1640-1. - Текст : электронный. - URL: https://znanium.ru/catalog/product/2136067 (дата обращения: 28.04.2024). – Режим доступа: по подписке.
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人間失格

治 太宰
УДК  811.521
ББК  81.2 Яп-93 
 
Д14

ISBN 978-5-9925-1640-1

Дадзай Осаму.

Д14       Исповедь «неполноценного» человека : книга для 

чтения на японском языке / Осаму Дадзай. — Санкт-
Петербург : КАРО, 2023. — 192 с. — (近現代文学).

ISBN 978-5-9925-1640-1.

Осаму Дадзай — одна из самых трагичных и зага-

дочных фигур японской литературы XX века. Роман 
«Исповедь „неполноценного“ человека» — последнее 
крупное произведение писателя — написан в жанре 
«ватакуси-сёсэцу» (повесть о себе). Дописав «Исповедь…» 
и вложив в нее всю свою душу, Дадзай вместе 
с Ямадзаки Томиэ совершил синдзю, «двойное самоубийство 
влюблённых». 

В это время года созревают плоды вишни, поэтому 

19 июня, день памяти писателя, в Японии отмечается 
как «День поминовения вишен».

УДК 811.521

ББК 81.2 Яп-93

© КАРО, 2023
Все права защищены
人間失格

1

1 Досл.: «Утрата звания „человек“». В русских изданиях принят 

единственный вариант перевода «Исповедь „неполноценного“ 
человека». 
はしがき

1

私は、その男の写真を三葉、見たことがある。

一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべ

きであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真

であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこ

まれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、そ

れから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園

の池のほとりに、荒い縞の袴《はかま》2 をはい

て立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑って

いる写真である。醜く? けれども、鈍い人た

ち(つまり、美醜《びしゅう》などに関心を持

1 Предисловие к повести ведется от лица стороннего чело-

века, который рассматривает фотографии главного героя 
произведения Оба Ёдзо. Далее повествование ведется от 
лица главного героя.

2 Некоторые сложные для прочтения и устаревшие слова 

даны знаками азбуки хирагана в кавычках.
たぬ人たち)は、面白くも何とも無《な》いよ

うな顔をして、

「可愛い坊ちゃんですね」

といい加減なお世辞を言っても、まんざら空

からお世辞に聞えないくらいの、謂《い》わば通

俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔

に無いわけではないのだが、しかし、いささかで

も、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひ

とめ見てすぐ、

「なんて、いやな子供だ」

と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫で

も払いのける時のような手つきで、その写真をほ

うり投げるかも知れない。

まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見

るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪《うすき

みわる》いものが感ぜられて来る。どだい、それ

は、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいな

いのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶし

を固く握って立っている。人間は、こぶしを固く

握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。

猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せている
だけなのである。「皺《しわ》くちゃ坊ちゃん」

とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、

そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをム

カムカさせる表情の写真であった。私はこれま

で、こんな不思議な表情の子供を見た事が、い

ちども無かった。

第二葉の写真の顔は、これはまた、びっくり

するくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の

姿である。高等学校時代の写真か、大学時代の写

真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそ

ろしく美貌の学生である。しかし、これもまた、

不思議にも、生きている人間の感じはしなかっ

た。学生服を着て、胸のポケットから白いハン

ケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて

足を組み、そうして、やはり、笑っている。こ

んどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かな

り巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の

笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おう

か、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのよ

うな充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようで

はなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そう
して、笑っている。つまり、一から十まで造り物

の感じなのである。キザと言っても足りない。軽

薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りな

い。おしゃれと言っても、もちろん足りない。し

かも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生に

も、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて

来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美

貌の青年を見た事が、いちども無かった。

もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。

まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶ

ん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋 

(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、そ

の写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい

火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。ど

んな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をか

ざしながら、自然に死んでいるような、まことに

いまわしい、不吉なにおいのする写真であった。

奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わ

りに顔が大きく写っていたので、私は、つくづく

その顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額

は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻
も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いば

かりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえ

ば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私は

この顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は

思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公

の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何

としても思い出せない。画にならない顔である。

漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。

あ、こんな顔だったのか、思い出した、というよ

うなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、

眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せな

い。そうして、ただもう不愉快、イライラして、

つい眼をそむけたくなる。

所謂《いわゆる》「死相」というものにだっ

て、もっと何か表情なり印象なりがあるものだろ

うに、人間のからだに駄馬の首でもくっつけたな

ら、こんな感じのものになるであろうか、とにか

く、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさ

せ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こ

んな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちど

も無かった。
第一の手記

1

恥の多い生涯を送って来ました。

自分には、人間の生活というものが、見当つ

かないのです。自分は東北の田舎に生れましたの

で、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなっ

てからでした。自分は停車場《ていしゃじょう》

のブリッジを、上って、降りて、そうしてそ

れが線路をまたぎ越えるために造られたものだと

いう事には全然気づかず、ただそれは停車場の構

内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイ

カラにするためにのみ、設備せられてあるものだ

とばかり思っていました。しかも、かなり永い間

そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降り

たりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけ

1 Текст повести дан в тетрадях: «Первая тетрадь», «Вторая 

тетрадь», «Третья тетрадь» .
のした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中で

も、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思って

いたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をま

たぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないの

を発見して、にわかに興が覚めました。

また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道とい

うものを見て、これもやはり、実利的な必要から

案出せられたものではなく、地上の車に乗るより

は、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊

びだから、とばかり思っていました。

自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みまし

たが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団のカ

ヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、そ

れが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくにな

ってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲し

い思いをしました。

また、自分は、空腹という事を知りませんで

した。いや、それは、自分が衣食住に困らない家

に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味

ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんな

ものだか、さっぱりわからなかったのです。へん
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